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49: CHROME / HALF MACHINE LIP MOVES

いつかこの項にクロームを登場させねばなるまい、と思っていたが、それが遂に実現の運びとなった。というのも、クロームのような音は錚々月に何度も聴くような類の音ではなく、年に二、三度がせいぜい関の山と言ったところで生理不順な女の子のように私の頭が欲する時期とタイミングがズレまくって今に至る。年に二、三度と言っても必ずしもそれが音楽的価値とイコールすべきものでないのは聴いたことのある人なら分かって頂けるだろう。

クロームが登場したのはおそらく1976年。パンク・ムーヴメントの潮流と時期が重なったせいか、ニューヨーク勢の影に隠れる形となったが、西海岸ではレジデンツ、タキシード・ムーンと並び最重要バンドであった。ヘリオス・クリードの鳴らすそのギターは轟音ではないが、無表情に鋭くノイジーなオシレーターと化し、一体何をやっているのか分からないデイモン・エッジのシンセ等はあまりにも無意味すぎたし、ドラムはシンバルレガートもクソも無く気分まかせ、最大の極みは「おい、こら。エンジニア呼んでこい!」と言いたくなる録音の不安定感。これらがアモン・デュール1stのようにカオス的均衡を齎した編集術により我々にこの盤の重みを実感させた(いくらかの歳月が必要だったにせよ)。

クロームの存在は「恣意的邂逅」の実践に尽きる(彼らが意識していたかどうかに関わらず)。想像は誤解を呼び、或いは誤解を逆説的に呼び込もうとする彼らの嗅覚は凡庸極まりない一部のパンク勢と比べ明らかに抜きん出ていた。そしてパンクの一部にするには余りにもメッセージ性に欠けていたし、また、マスメディアが利用するドラマ性は無に等しかった。悪夢の断片のような音の連なりが、皮肉にも唯一のメッセージ(安易なムーヴメントに対する)となった。

ほとんどの作品が入手難という異常事態ではあるが、難無く入手できるこのアルバム(ALIEN〜とのカップリング)とアンソロジーは必携である。

 

48: CAGE/HILLER / HPSCHD

シェーンベルグはケージに対し「作曲家ではなく、天才的な発明家」と評した。

「時間」「自然」が人を、或いは音を進化させるとケージは強調する。偶然と必然の違いにたいした差は無く、その歪みの調整こそ、ケージ最大の功績でもあった。そしてその「歪み」を具現化する試み(イヴェント)が1967年(1962年という説もある)に開始された「HPSCHD」である。ケージがコンピューターを作曲のツールとして持ち込んだ最初の楽曲と言われている。レジャレン・ヒラーとの共同作業によって1969年に完成された。

ハープシコード奏者7人による独奏とコンピューターによってオクターブを52分割したミックスである。ケージ/ヒラーの意図は別として、非常に混沌とした音が約68分間鳴り響き、コンピューターによる増幅がリズムを齎す。山も谷も無い音の連続である(ミニマリズムともまた違う)。結局のところ、彼の提唱した「チャンス・オペレイション」/「ハプニング」とは我々が「音楽」の意を履き違えたところに起因している気がしないでもない。故に発想とは社会的定義との差異による偶然性である。何を今更、と思われるかもしれないが、音楽の「楽」を楽しむ意で捉える我々にとって、これは最高の毒と成り得る。


全く違う話になるが、現在独逸東部、ハルバーシュタット、ブキャルディ廃教会にて、史上もっとも長いとされる
Organ2/ASLSP4年半を以って第2のコードに変化したとのこと・・・・。

 

47: JACQUES BERROCAL / CATALOGUES

序文として。
私にとって「アヴァンギャルド・エロティック」を代表づける存在がこのジャック・ベロカルである。エロさとは何か、を嘗て池玲子が雄弁と示したように、ジャック・ベロカルは音の構造的発露を嘲笑いながら、スケッチをするかのように音をばら撒く(お金をエンパイア・ステートビルからばら撒くかのように)。それは私にとって、実にエロティックだ。

先ず古いフランス映画に出てきそうな名前が良い。ジャック・ベロカルの風貌を見る限り、ニック・ケイヴとかのニュー・ウェイヴ/パンク風の至極真っ当なアーティストなのだろうな、と思っていたが、いざ音を聴いてみるとやはりAlga Marghenらしい音で、立ち眩みを起こす。アヴァンギャルドと一言言ってしまえばそれまでなのだが、どこかしら人の体温を感じることのできる稀有な音像を焼き付け、その精神はまさしくフリー・ジャズを経過したパンク精神。管楽器奏者なはずなのに、管楽器はどこ?と言いたくなるくらいカットアップ、コラージュの連続で、faustNURSE WITH WOUNDのような映像の残骸を思わせる。もちろん、環境音/具体音の多用も目を見張るものがあり、ハイナー・ゲッベルスのECM作品(landscape〜)を思い起こさせられるストリートの音。中盤辺りからのいよいよ本領発揮とばかりに鳴らされるペットの音は不安定に、時に苛ただしく(ガラス窓を爪で引掻くように)、従来のトランペッターとは対極の音を示す。私がいかに音に縛られているのかをまざまざと教えてくれる79年作。ベロカル流シネマ・ショウ。そして、既存音に対する「NO!」の断片的記録。

 

46: TRILOK GURTU / USFRET

音楽雑誌のよく言う「ROCKの未来を見た」とか「現在進行形のJAZZの〜」とかそんなものは「家政婦は見た」みたいなもんで、そう簡単に未来を見られてはドラエモン的にたまったもんじゃない。
と思っていたのだけれど、このアルバムは結構凄いぞ。心して聞きましょう。JAZZの未来でもロックの未来でも何でもいいけど、とにかくこれこそ私の追い求めていた音だ、と確信した。

トリロク・グルトゥは70年代からセッション・ミュージシャンとして活躍してきたインド人パーカッショニスト。テリエ・リピタル、ドン・チェリー、ジョン・マクラフリン、ビル・ラズウェル等(ドイツのエンブリオにも参加していた)実に錚々たる面々のバック・バンドを渡り歩き、世界各地を転々としていたそうな。

で、このアルバムは彼の初リーダー・アルバム(89年作)。
トリロク・グルトゥの呪術的/原始的(そしてインド的)なポリリズムと妖しげな(美しい多国籍配合感のあるヴォイス)声を持つ母ショーバ・グルトゥとの交錯、ドン・チェリーの培ってきた(モダン〜フリー)ごった煮JAZZ臭を漂わすペット(洗練されてはいるが)。シャンカールの中東をまたにかけるヴァイオリン。
これらが齎す作用は極めてトランス的だ(昨今のトランス〜テクノと決して混合されない真の肉体的/精神的トランスである)。
ブックレットの裏側にはショーバとトリロクの写真が拝めるのだが、この二人の自信に満ちた魔術的なお顔は必見。

 

45: たま / さんだる

私が小学生のいつ頃だったか忘れたが、「さよなら人類」がヒットした。確かCMソングに使われていたと思う。時代を間違えたかのような風貌(ドラムの人−石川氏、山下清やん、と思った)と曲のインパクトは凄かった。
メロディは底抜けに親しみやすかったのだが、歌詞だけはどうも理解不能(シュールという形容詩なんて小学生のボキャブラリーでは持ち合わせていないし)で当時は必死に歌詞を聞き取り、メモをしながら録音されたテープを聴いていた(CD買うお金は勿論なかった)。友達とよく一緒に歌っていた。猿にはなりたくない、と。だんだん意味などどうでもよくなった。

洋楽を意識的に聴きだしてからと言うもの、古い歌謡曲は好んで聴いていたが、それ以降の音楽はどうも疎い。フリッパーズギターもコーネリアスもスピッツもミスチルもほとんど知らない。今更あまり聴こうとも思わない。ただ、「たま」だけはどこか常にひっかかるところがあった。初めてはっぴいえんどを聴いた時、なんだかデジャヴを感じ、この感覚は何だったのかうーんうーん唸った。数年後たまのアルバムと再会し「どんぶらこ」を聴いてこいつか!とスッキリした。失礼な言葉で言うならば「どこか奇をてらった90年代版はっぴぃえんど」。

現代から70年代に間違えてタイムスリップしたかのような自然が目の前に広がり、暑さも寒さも心地良くなる。クーラーなんて絶対につけない。汗をかこう、と思える。私の嫌いなマッチョ的なポジティヴさは微塵もなく、遅刻したっていいやと思える。何より日本語の良さ、を実感させてくれるアルバムである。友部正人とのアルバムもそれを証明している。
これはたまのデビューアルバムで、初期の3作「ひるね」「キャベツ」は必聴だ。

 

44: RICHARD NATTO / NOT JUST ANOTHER PRETTY FACE

このリチャード・ナットの80年作を手に取る人は一体どういった人達だろう。すごく、興味がある。解説にあるようにBEN WATTの名作「NORTH MARINE DRIVE」の質感を求めてなのか、或いはハワイアン好きか。いずれにせよ、私を含めてこれこそ幸運と呼べるものである。
ひと月に嫌というほどCD/レコードを買い、その中での'当たり'は・・・と思うと、やってられなくなる面も無きにしも非ず、しかしそんなくだらない事を帳消しにしてくれるアルバムを今持っているというのは、何だかんだ言って救いであるし、だからこそ音楽ファンを止められないんである。そして、こんなマニアックで誰も紹介しないようなアルバムが超絶の名盤であるのなら、一体世の中にはどれほどの良い音楽があるのだろうか、と考えてしまい、途方に暮れたりもする。とにかく、そんな素敵なアルバムだ。

リチャード・ナットはハワイアンSSWで、トマ&ナットというユニットで1978年アルバム・デビュー、これはそのトマ&ナット名義での2ndとして制作されたが、仲違いもあり結局はリチャード・ナット単独名義でのプロジェクトとなっている。
前述した通り、BEN WATTとの類似性がよく挙げられている。しかしベン・ワットのあまりにも繊細で静謐、今にも崩れそうなジャズのブラッシュ・ワークのような音とは少し違い、こちらはもっと人生を謳歌しようとするかのようなポジティヴな繊細さが魅力的(そして、やっぱりほんのり「暗い」ところも垣間見れるのが惹きつけられる)。最近は、さて何を聞こう、と悩んだ時、とりあえずこれを聞くことにしている。

 

43: NEIL YOUNG / TONIGHT'S THE NIGHT

ニール・ヤングを初めて聴いたのは確か「Harvest」だった気がする。あまりにもセンチメンタル過ぎてここ最近は聴かなくなった。ラスト・ネヴァー・スリープスもちと重い。
しかし「重さ」でいうとこの「今宵その夜」と前作「ON THE BEACH」は一番なんじゃないだろうか。ラスト・ネヴァー・スリープスとはベクトルの違う「重さ」を体感できるのがこれら二作で、とりわけクレイジー・ホースのダニー・ウィットン、CSN&Yのローディーだったブルース・ベリーに捧げられたこのアルバムの「重さ」は「暗い」などの一言で語れないものがある。しかし、この暗さは本当に、暗い。あれだけ未来への希望に満ち溢れた60年代が、70年代に入り悉く打ち砕かれ幻想となったものがここに彷徨う。ヘロインの過剰摂取による両雄の死はヤング(それこそロックの英雄に祭り上げられた彼には)にとってダメージは計り知れないものだったのだろう。ハーヴェスト、アフター・ザ・ゴールド・ラッシュのヒットによる時差があったものの、70年代の暗鬱な閉塞感が現われている。

録音は酩酊状態で行われ、全員がヘロヘロ。「ヤケクソ」というと言葉が悪いが、追悼の形では個人的にニール・ヤングにとって最良の形であったと思う。MELLOW MY MINDの掠れたヤングの声を聴くと、思わず泣きたくなる。今夜がその晩。

泣きたい時しんどい時、ニール・ヤングを聴くというのは絶対的に、正しい。
「ぼちぼちいくさ
腹が減ったら車をとめて熱い卵とハムにしよう
誰も俺を嗅ぎまわらない
そんな所をみつけるさ」 (ALBUQUERQUEより)

 

42: RUINS / MANDALA 2000:LIVE AT THE KICHIJOJI MANDALA U

RUINSは吉田達也(ex高円寺百景)率いる超ド級変態バンドである。ベース(佐々木恒)とドラムのみという編成で、そこにコバイヤ語ならぬ磨崖仏語(?)が発せられる(因みに、吉田達也は大のマグマ・フリークスらしい)。吉田達也が操る超絶変拍子と(彼はキーボード等も弾いたりするマルチ・プレーヤーでもある)、佐々木恒のヤニック・トップばりにぶっとく歪んだベースが一つの塊となって、ドスンドスンとそれらを天から落としたかのように圧倒的重力、吸引力を感じさせるジャンルレス・ミュージックとなる。

このアルバムは2000年吉祥寺マンダラでのライブを収めたもの(ゲスト参加でROVOの勝井祐二)。往年のハード・ロックへの偏愛ぶりを綴ったHARD ROCK MEDLEY等集大成としても聞ける。原型がどんなのだったかさっぱり不明だが。つまりは音楽の原型からの破壊/構築を彼等もまた行い、その辺がクリムゾンと比類されるところだろうか。しかし破壊/構築は全て彼等の核(CORE)に基づいて行われる(ジャケットによく石が使われているのもその辺りのメタファーか)。
RUINSの音楽を聴き、そしてそれらを思う時、当初はなんて奇特な音楽なのだろう、と思ったが、時を置いて聴いてみると実は彼等の音楽こそ自然的なのかもしれないと思った。ポジティヴな生命力溢れる演奏である。

 

41: ALICE COOPER / THE LAST TEMPTATION

普通、アリス・クーパーとくると、KILLERやSCHOOL'S OUT(祈、紙パンティー紙ジャケ発売・・・)、BILLION〜という初期の名盤になると思われるのだが、ここではほとんど無視されていると思われる94年作を。何を隠そう私がアリス・クーパーに初めて触れたのはこの作品であり、その次はルー・リードのロックンロール・アニマルというワケのわからない経緯で聴いていき、おおよその人々が辿る先述したKILLERやマザーズのアリス・クーパーからは程遠いアリス・クーパー道を歩んだのである。

ちなみに正統(?)なエクスペリメンタル・ロック愛好家には間違っても勧めてはならないのが産業ロックというやつで、このアルバムは見事産業ロックのエッセンスが感じられ、ハード・ロックやメタル・ファンにしか胸を張って薦められない。悲惨なジャケも相まって、これを当時手に取った自分自身に購入動機を質問したくなる。

なんだか悪口ばかりになったのだけれど逆である。元々明快(冥界)なメロディとタイトな演奏が売りだったわけで、このアルバムのコンセプトは悪夢を彷徨う少年を通した現在のアメリカ批判という、ぜんぜん全盛期とブレがないコンセプチュアルなアリス・クーパーが聴けると言っても過言じゃない。熟練度を増したアリスは泣きのメロディの鮮度も増し、はっきり言って全曲聴き終えると感動さえも生まれるという個人的に大好きな一枚。
やれプログレだの、アヴァンギャルドだ、フリーだ、ノイズだと言っているやつより、アリス・クーパーが大好きな奴の方がいい奴に決まっている。つまり、個人的にこういうのがロックンロールなんである。

 

 

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